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「受験生」は、マルチタスクの夢を見るか?

「平成」という時代が終わり、「令和」となった。「昭和」生まれの私は、「食事のときに私語をしてはいけない」と親に言われて育ち、無言で黙々と食べる習慣が身についてしまった。おかげで、これを直すのにえらく苦労した経験がある。
学生時代などは、数名で食事をすることが多かったのだが、どのタイミングで話をしたらよいのか、全く判断がつかなかった。気がつくと、一人でむしゃむしゃと食べていて、まわりが唖然としていたこともあった。
その後、大人になってから自らが意識したタイミングで、どうにかこの「食べながら話す」という器用な術(?)を身につけるに至ったわけなのであった。

 

昔は、ポテトチップスを食べながら、テレビを見ていたりすれば、周囲の大人から「ながら族」と呼ばれ、きつく叱られたものだった。
だが、大人になってみれば、この「ながら」行為が、なかなかの息抜きになると同時に、日々のストレス解消にも一役買っているのではないかと思うようになった。例えば、雑誌を見ながら食堂でラーメンを食べたり、公園を歩きながらウォークマンを聴いたりすることである。

 

実は最近、久しぶりに歯医者に通うようになり、歯科衛生士による個別指導を受けている。改めて歯磨きの仕方を教えてもらった。その結果、磨き残しが大幅に減った。毎日、大小の歯ブラシを使い分け、フロスまでの行程を湯船につかりながら行っている。一度に2つのことをするのは、効率がよくて非常にやる気が出ることを改めて知った。

 

こうした「ながら行為」は、「子どもの教育」という視点からはあまりほめられたものではない気がするが、なぜかある種の解放感があることも否めない。しかも、習慣でルーティンと化した行動は、自分にとって至福の時間となっているので、なかなかやめられない。
毎日、子どもたちは学校へ行き、当たり前のように教師から授業を受けている。

 

 

最近、生徒に「授業の受け方」を聞いてみたところ、面白いことがわかった。ある生徒のノートには、板書だけでなく、教師が授業中に話した雑談やダシャレまでもが書かれており、授業中の臨場感すら漂ってくる。

一方で、「書くこと」だけに集中し、教師の板書をそっくり写しているケースも多数あった。果たして、教師の説明は耳に入っているのだろうか。

つまり、同じ授業を受けていても、「ノートの取り方」=「授業の受け方」には、雲泥の差が存在している。私見だが、成績に決して無関係とは言えない気がする。前者は、おおむね学年上位の生徒なのである。

こうした「AをしながらBをする」という行為は、何か得をした気分になるから面白い。高校時代、日本史の授業中に英単語をやっていたら、心ないクラスメイトのリークで先生にバレてしまい、分厚い日本史の教科書で思い切り叩かれた。「授業中に他の科目を行う」こうした行為は、昔は「二毛作」と言っていたものだが、最近は「内職」と言うらしい。

 

国公立大学を受験する生徒は、常に複数教科を学習しなければならない。好きな勉強、嫌いな勉強も同時進行だ。英語をしながら数学もやるし、国語も学ぶ。時々、理科や社会にも手をつける必要がある。複数教科の「ながら」勉強は、避けて通れない道だ。これを脳科学の分野では、「マルチタスク」というそうである。

高校生ともなれば、定期テストの際に10科目以上の学習をこなす必要に迫られるため、「一夜漬け」はもはや通用しない次元のこととなってしまった。なぜなら、難易度と学習量が脳の許容量を超えているので、短時間ですべてを覚えることはとてもできない。この事実に気づかず、前日に「詰め込み学習」に挑戦しては同じ失敗を繰り返す生徒の何と多いことか。

 

近頃は、「勉強の仕方がわからない」という生徒が急増している。だからこそ、「あなたが『受験勉強』で得た自分独自の『勉強法』は、将来、就職試験や資格試験の際に必ず役に立つのです」と、私は生徒に言い続けてきた。

案外、受験勉強がもたらす副産物は、知識の蓄積や学習法の習得ばかりではなく、思いもよらぬ意外な能力なのかもしれない。始末が悪いのは、大人にならないと「どんな能力が身についたのか」がわからないという点だ。だから、「学習」には常に全力で取り組む気持ちを持ってほしい。

 

中高年になった方から、「あのとき、もっと勉強しておけばよかった」という話はよく耳にするが、「あのとき、勉強して損をした」という話はついぞ聞いたことがない。「今の自分にできることは何か」を常に考え、挑戦していきたいものだ。誰だって、「後悔の人生」だけは送りたくはない。
よく、「勉強って何の役に立つの?」なんて、大人に勝った気分でサボっている子どもたちを見かける。だが、彼らは将来、就職したとき、周囲と自分との大きな差に気づくときが来るかもしれない。損得勘定だけで勉強してはいけないと思う。「今、役に立つかどうか」を判断できる人なんていないのだから。

 

ともすると、最近の若者たちは、「結果」を急ぎ過ぎてはいないだろうか。失敗や挫折もなく簡単に手に入る「成功」などない。これも、便利な時代の弊害なのか。

 

「学習の本質」とは、「最初から全体がわからないもの」をやり抜くことにある。だとすれば、今の自分自身の学習に対する価値基準や価値判断などは、全く持って当てにならないことになる。

 

そういえば、私が小学生のときに習った剣道も、「これから何を学ぶのか」を全く知らないところからスタートした。結局、剣道は8年間続いた。教員になったとき、特設剣道部の副顧問になった。まさか、将来、自分が子どもたちに剣道を教えることになるとは、剣道をやっていた高校生の自分には思いもよらぬことであった。

 

人間の行為には、「わかってから行う」行為と「わからないところから始める」行為がある。そもそも「学習」という行為は後者であり、家電量販店で「エアコン」を買うのとは、本質的に違うものなのである。まずは、自らが「素直にやってみる」気持ちが大切だろう。シンプルなことだが、これがなかなかできない。自分だけは損をしたくないと思う気持ちから脱却できないのである。

 

自分にとって未知の事柄が「わかる」という喜び。これは、知的快楽とでも呼べばよいのかもしれない。

ところで、あなたは、まだ見ぬ地平へと突き進む原動力を、手に入れて生きているであろうか。今、「学ぶ」と言う行為に対して、無心になって飛び込めるだろうか。そして、私たちは未来の子どもたちに、何を伝えるべきなのか。

 

郡山事務局 専属教師 村井 眞一

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